不在の巣

なろうで小説を書かせてもらっている馬込巣立のブログです

アニメ『賢者の孫』を見終えて

 こんにちは。馬込巣立です。

 

 本日ニコニコ動画にて配信されている賢者の孫最終回を視聴しました。個人的に「これはクソアニメ」と判断したら1話切りかPV切りしてきた私ですが、今回は最後まで見終えましたのでその感想を述べていきたいと思います。

 

 先に申し上げておきますと批判的な内容が多分に含まれますので、苦手な方はブラウザバックしてください。

 

 

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 で、感想なんですが。

 つまらないな、と感じる一方で「つまらない原作を最低限見られる内容にしよう」というアニメ制作側の努力の痕跡も少しですが見受けられ、一方的に批判するにはやや同情の余地が残る出来栄えとなっていました。

 

 今回は単純な感想として記事を書いていますので作品の概要については省略しますが、アルティメットマジシャンズ(核爆)が出てくるところまでWEB版を読み進めた過去を持つ私が知る限り『賢者の孫』という作品自体は駄作です。

 その駄作を僅かにでも視聴できる程度にちょっとしたアレンジが加わえられている様子も見られたものの、やはり素材の悪さが出てしまった部分もあるように思えました。

 

 駄目な部分を挙げ始めるとキリがないのでザックリと三つに分けて批判していきます。

 本当は褒められる部分を褒めたりもしたかったのですが、この作品の面白さのピークであるシンの幼少期が見事に短縮されてしまっていたので私はもう何も語れないんですよね……。原作者さんはNHK連続ドラマ小説みたいな作風でこそ輝く人なんじゃねえかと思う今日この頃です。

 ではまず一つ目から。

 

◆内容が幼稚

 

 漠然としてしまっていますが、まずこれです。

 先に挙げたアルティメットマジシャンズ(核爆)、呪文詠唱とその扱い、その他諸々に見受けられるあらゆるセンスが小学生のそれなんですね。

 

 作中で主人公のシンが定期的に「何だよそれ恥ずかしい!」みたいなリアクション取ってますけど、私の予想だとあれは作者さんなりの自己弁護なんじゃないでしょうか。

 敵対勢力や他勢力に固有の組織名がない辺り、そう思った方が自然な気もします。呪文の詠唱を省略するのが強者の証みたいな設定も、詠唱を考えるだけのセンスが作り手側に無かったと考えると悲しい話ですが説明できてしまうんですね。

 あくまで私個人のイメージの話であり、実際のところ作者さんのセンスがどうなっているのかについてはこの作品一つで語るべきではないでしょうけど。孫が終わって次回作でも似たようなノリならそういう事だとこっちで勝手に確定します。

 

 この場合のセンスとは詩情とも言い換えられるでしょう。言葉を紡ぎ人の心を震わせる、ある意味では作家としての在り方に根差す表現の力です。その力が働いている場合と働いていない場合でどのくらい違うのか?

 ちょっと今から物凄く残酷な事をしますが、曖昧な意見を押し付けるような話の展開を避けるための私なりの工夫ですのでご容赦ください。

 

 まず最初に、『賢者の孫』で使われていた魔法の呪文の一例を以下に記載します。

 これは魔法学校の入学試験において、主人公と同年代の少年が魔法を行使する際に詠唱したものです。

 

『全てを焼き尽くす炎よ! この手に集いて敵を撃て!』

『ファイヤーボール!!』

 

……はい。

 

 WEB版では『ボンっ!』という効果音のみが記載されており具体的に何がどうなったかは一切語られていませんが、多分「全てを焼き尽くす炎が手に集って撃ち放たれたんだろうなあ」と大体想像できますね。

 

 さて、ここからが残酷なところです。

 

 次に提示致しますのは、18禁ゲームDies iraeにて主人公の藤井蓮が使用する必殺技の詠唱です。

 このゲーム、というかこのシリーズは詠唱のかっこよさが売りの一つとなっています。果たしてどこまで違うのでしょうか?

 

日は古より星と競い
定められた道を雷鳴の如く疾走する
そして速く 何より速く 永劫の円環を駆け抜けよう
光となって破壊しろ その一撃で燃やし尽くせ
其は誰も知らず 届かぬ 至高の創造
我が渇望こそが原初の荘厳
創造―美麗刹那・序曲(アインファウスト・オーベルデューレ)

 

 はい。

 

「焼き尽くす」と「燃やし尽くす」で微妙に文章が被ってるはずなのに、1ミクロンも重なる部分が見受けられませんね。

 因みにこの蓮君の技は別に相手を燃やし尽くす技ではありません。気になる人は本編をチェックだ!

 

 

 いや、極端な例で申し訳ないんですけど要するにこういう事なんですよ。

 もう少し対象年齢の低い呪文を用いる『魔法先生ネギま!』でもファイヤーボールほど安直なセンスしてないでしょ。南洋の嵐がどうたらとか三十の棘もつ愛しき槍がこうたらとか言ってるでしょ。

 

 で、呪文やネーミングのセンスがこれで敵となるモンスターや魔人もコメディっぽいノリで虐殺されていくわけで。

 ファンタジー世界で国の存亡とか人命とかそういう重いテーマを扱いながら、やってる事は児童向けアニメ、しかし実際にもたらされている結果は深夜アニメです。最悪な形で設定と描写の間にギャップというか深い溝が出来ています。

 こういう倒し方をするなら、例を出すと『この素晴らしい世界に祝福を!』くらいのギャグセンスが要求されると思って間違いないでしょう。出来なきゃせめて戦闘シーンくらいは真面目にやってもらいたいものですね。

 

◆主人公及びその仲間に魅力がない

 

 結構キツい話を連続でする事になっちまったなあ!

 先に具体例を持ち出してから解説しましょうか。

 

 主人公のシンにはアニメ終了時点で婚約まで話を運んだ愛すべきヒロイン、シシリーがいます。

 主人公とヒロイン、彼らが相思相愛となったエピソードとはいかようなるものなのか?

 

 言っちゃえばチンピラに絡まれてるヒロインを主人公が助けてその時お互いに一目惚れしたってだけです。ドラマなんか無かった。

 

 そのせいかアニメ八話で彼らはお互いのなれ初めについて語り合うも、「チンピラをぶっ飛ばした」「その時にヒロインの女友達が助けを求めた」という二つの話題で終わりました。

 

 わかりますでしょうか。

 中華料理店で餃子を頼んだのに焼いた皮しか出てこなかったようなもんです。

 

 まずこの一例は本当にあくまでも一例に過ぎません。これに限った話じゃないから問題なんです。

 この物語の登場人物、大半は肩書きや生まれ以外に大した個性を持っていません。よりわかりやすく言語化するとキャラクターに歴史が足りていない。

 

 唐突ですが皆さん、スタニスラフスキーシステムという言葉をご存知でしょうか?

 元は演劇に用いられる手法であるとされるこの理論、厳密な意味について解説すると長くなってしまいます。なので誤解される覚悟でざっとまとめると「架空の人物が有するパーソナリティを緻密・厳密に掘り下げて滲み出る魅力を表現しよう」って話です。

 マジで誤った認識である可能性もあるので、これに関しましては専門家の方からのツッコミお待ちしております。

 

 例えば主人公が死んで異世界に転生するという系統の物語であればどうか。

 死ぬ前の主人公が有していたパーソナリティ(家族構成・経済状況・労働環境などなど)についてちゃんと掘り下げている作品の方が、私には魅力的に思えます。

 そして『賢者の孫』の場合、主人公は「現代日本において残業が存在する事務仕事を務める社会人であった」という前提があるわけですよね。

 

 はい、もう結構な数の人が既に言っている事でしょう。

 作中でシンが15歳になった時点で元の人格の享年も加算すると、仮に若く見積もって前世が18歳であったとした場合でも彼の実年齢は33歳になります。33歳が“常識外れ”に育つでしょうか?

 

 薄っぺらなパーソナリティを有する実年齢30代の主人公がとりあえず地形を変えるような強大な力を手にして、街でわかりやすくチンピラに絡まれている美少女を助けてお互いの顔を見て「美少女だ!」「かっこいい!」と互いに惚れる。

 そういう話なんです、私から見た『賢者の孫』というのは。

 

◆登場人物の扱い方が雑

 

 最後はこれです。「魅力がない」とは少し異なるポイントなので別項目としました。

 私のTwitterや小説を見てくれている人達であれば何となく察しているところかもしれませんが、私は3話で殺されたカート君に対して割と本気で同情しています。

 

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↑コイツです

 

 何故かというと彼は敵に洗脳されただけの被害者でありながら誰からも助けてもらえず、主人公のシンに殺されてからもその死をずっと粗末に扱われるという非常に雑な扱いを受けたキャラクターだからです。

 彼の死に様とそれを目の当たりにしたはずの周囲の反応には多くの人々が困惑と戦慄に見舞われました。

 

 これは『賢者の孫』に限った話ではないのですが、創作界隈全体に一定数「迷惑なチンピラなら殺しちゃっても良いじゃん」という思想が溶け込んできているように思います。

 いやぶっちゃけ殺す事それ自体は別に良いんですけど、それに対する周囲の反応が不自然極まるんですよ。このカート君の場合、首を切除された死体の横でシンの仲間や駆けつけた騎士団の連中が「魔人を倒したぞー!」「ウォォースゲェーッ!」って盛り上がってるんです。

 

 異常でしょ。

 

 はっきり言います。私は『賢者の孫』の作者に当たる吉岡先生に対して悪感情を抱いているわけではありませんが、こんな描写を平然と入れてる時点で少なくともこの作品は立派な駄作です。

 

 思い出してください。私はスタニスラフスキーシステムについて「架空の人物が有するパーソナリティを緻密・厳密に掘り下げて滲み出る魅力を表現しよう」というものだ、と勝手にですが解釈し定義しました。

 そこで疑問なんですが、キャラクターにどういう背景があれば首なし死体の隣りでほのぼのとしたやり取りができるんでしょうか?

 

 もうこれ以上何を言ったところで「魔人やチンピラ=言葉を発するだけの殺すべきモンスター」くらいの認識で話を進めているであろうあの作品がどうなるもんでもないのでしょうけど、そういうところがクソだっつー話なんですね。私としては。

 

◆まとめ

 

 以前私はTwitterにて「真面目に賢者の孫を面白いと思っている人は何を面白いと思っているのか甚だ疑問だ」と呟いた際、『賢者の孫』を好んで読んでいるという方からご意見を頂いた事があります。

 その方曰く、

 

「だって賢者の孫はハーレムじゃないでしょ? ハーレムじゃないって最近のライトノベルでは珍しいですよね? 私にとってはその珍しさが大事な部分で、魅力なんです」

 

 との事でした。

 それを聞いて私は否定こそしないまでも「好きな人から見てもここが面白いって作品じゃねえんだなあ」としみじみ思ったわけです。

 

 ぶっちゃけ物語として魅力的な作品ではないと思うんですよ、この『賢者の孫』というのは。歴戦の猛者である高橋龍也先生の手腕でもあの出来になってしまうって時点で色々察するものがありますよ。

 ただアニメ制作側も「こんなのはこういう風に使ってやるのが正解なんだ」と言わんばかりに無名に近い新人バーチャルYoutuberを声優に起用したりしていたので、原作とアニメとの戦いは引き分けってところじゃないでしょうか。視聴者は純然たる被害者ですけども。

 

 さて、今回は生まれて初めて最初から最後までクソアニメを通して視聴しました。二度とクソアニメなんて見ないよ!

 今後は大人しく普通にアニメ視聴を楽しんでいきたいところです。とりあえず夏アニメはロード・エルメロイⅡ世を見ます。それ以外だとダンまち2期かなあ……でもあれも原作途中から微妙だったしな……。

 

 と、いったところで現場からは以上です。また良ければ次回の記事もよろしく。